2011年9月19日月曜日
至福の85リットル
先日、家中の至る所にのさばっている雑多な物どもの圧迫感に耐えきれなくなって、収納場所を確保すべく、押し入れ等の整理をおっぱじめました。…すると、ウサギ小屋にしてもちっぽけ過ぎるような我が家の中に、まあ、あきれ返るくらいの膨大な物品の数々がギュウギュウ詰めになっていることに気付かされました。もちろん、そのほとんどが値打ちのないがらくたですが。
数十分奮闘し、数枚のゴミ袋をいっぱいにしたところで、早くもギブアップし、少し生じた隙間に新たながらくたを詰め込んで、早々にこの苛立たしく埒の明かない仕事を強制終了しました。
その夜、ビールのコップを手に、まだ家の中に転がっている数個の丸々と太ったゴミ袋を眺めながら、思わず知らず、こんなことを考えました。
「このゴミ袋の中身は、85リットルのザックにはとうてい入りきるまい。しかも、我が家のあちこちには、おそらく、この数百倍もの嵩高い物品どもがひしめいているのだ!」
そんなことを考えたのも、かつては、夏であれ冬であれ、よく、85リットルのザックひとつをひっ担いで、長い時は2週間ばかりも人里離れた山の中を徘徊していたからです。
そのザックには、テント、シュラフ、衣類、食糧、食器、調理具、コンロ、燃料、ヘッドランプ、等、等、生活に必要なすべてが詰め込まれていました。現地で補給するものは、水のみです。
日中は、雄大な空と山が、たっぷりと満足感を与えてくれます。そして夕方、テントをおったて、中に転がりこんでしまえば、その2立方メートルに満たない空間の中にも、この上なく楽しく豊かなひとときがぼくを待っているのでした。
もちろん、食事はこの上なく質素です。しかし、食後に、アルミカップにバーボンを注ぎ、ごろりと横になってしまえば、古代ローマの王侯貴族も羨むばかりの優雅な宴会の始まりです。
高処を渡る、あるいは木々の梢と戯れる風の歌声に耳を傾け、キャンドルの炎の幻想的なダンスに見入り、ホタテの紐の干物や落花生をつまみながらちびちびとバーボンを嗜めば、これぞ至福の極み、この世の楽園に他なりません。
…85リットルのザックひとつで、かくも幸福な日々が送れたのに、今、その数百倍の物資を所有して、それほど豊かでも幸福でもないのは、いったいどういうわけでしょうか?
さまざまな道具を所有することで、確かに生活は便利になりました。でも、道具たちは、その所有者に、自分たちの世話をすることを要求します。
たとえば、自動車は言います。「ローンを払え、駐車場を用意しろ、保険をかけろ、税金を払え、ガソリンを入れろ、オイルのチェックをしろ、車検を受けろ、シートカバーをかけろ、ワイパーゴムを換えろ、タイヤの空気圧を計れ、バッテリー液を補充しろ、ワックスを塗れ、窓を拭け…」
便利さと豊かさは、まったく別のものなのではないでしょうか? 豊かさは心にこそ宿るものなのだとぼくは思います。多くの「物」に追い使われる生活は、どう考えても豊かとは言えません。
アレキサンダー大王の好意に対して、ただ、日当たりの妨げにならないよう立ち去ることだけを求めたディオゲネスは、おそらく真の賢者だったのでしょう。
もちろん、ぼくだったら、やっぱり、あれやこれやのおねだりを大王様にしたことでしょうけど。
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