ある所で行なった短いスピーチの原稿です。
ある人が、雑談の中でこういう問いを投げかけました。「様々なテクノロジーが発達した現代においても、飢えに苦しむ人々がいるのはおかしなことですね。」…確かにそのとおりだと思いました。技術的には、世界中のすべての人々に、生命と健康を維持するに足るだけの食料を供給することは十分可能だと思われます。しかし、現実には、多くの国で、多くの人が、飢えのために命を落としているのです。
その最大の原因は人間のエゴイズムである、とぼくは思います。他人を犠牲にしてでも自分の利益を求め、それを増大させ、また独占しようとする人間の性が、飢えに苦しむ人を増加させているのです。
それは個人単位だけの話ではありません。家族・地域共同体・企業・国家といった単位、また、政治的・宗教的・民族的・人種的・思想的な集団によるエゴイズムが、闘争や迫害を生み、貧困層を増加させています。
そうした現状を見るにつけ、不可解な思いに苛まれます。この進歩した時代に何故?…という。
しかし、我々は本当に進歩した時代に生きているのでしょうか? よく考えてみると、この数千年の間に進歩したのは、単に知識や科学技術だけです。人間そのものは、ほとんど、いや、まったく変わってはいません。たとえば、プラトンは2000年以上前の人間ですが、どう見てもぼくよりもはるかに賢い。人類は数百万年かけて進化してきましたが、1000年や2000年では有意な変化は期待できないでしょう。人間は、文明を築いた後にも、それ以前の野蛮さや愚かさを自らの内に囲い込んでいるのです。
ならば、数百年前に行なわれていた虐殺や迫害や搾取などが現代においても依然として続いているのも、当然のことなのでしょう。しかも、進歩した技術が野蛮さや愚かさの道具となる時、もたらされる被害は、はるかに深刻なものとなるのです。
とはいえ、人類の将来は、暗い見通しばかりではないと思います。
蓄積され広められた知識は、人々の思想や気持に作用するでしょう。たとえば、古代には、世界は果てしなく広がったものだと、あるいは、果てがあるにしても、それは人間の活動圏のはるか彼方であると感じられていました。でも、今や、世界(すなわち地球)は有限かつ閉じられたものであると認識されています。それも、交通や通信の発達により、急速に小さなものとなりつつあります。資源や自然もまた、限られたものであるという認識が広がってきています。
そうした認識が、人類の一体感を醸成し、人を様々なエゴイズムの呪縛から解き放ち、大きな隣人愛へと向かわせることを期待するのは、安易で愚かなことでしょうか?
人間はそう簡単には進化できないとしても、心を改革することはさほど困難なことではないと思うのです。そして、それができたならば、劇的に進化するよりも、はるかに幸せな存在になれると思うのですが、これも甘い考えなのでしょうか…