この文章は春先に書いて、しばらく放置していました。
そのため、季節感が変になってしまった部分があります。
ご宥恕のほどを…
人生はまあまあ長くておおよそ100年です。100年と言っても、なかなかイメージしにくいかもしれません。わかりやすくしてみましょう。
高さ36.5メートルのキャンドルがあります。点火されるとⅠ日にⅠミリずつ減っていきます。全部燃え尽きると100年です。
手持のお金が36,500円あります。1日に1円ずつ税金を払います。 お金がなくなると100年です。
縦横191センチの台紙に縦横1センチのシールを1日に1枚、隙間なく貼っていきます。台紙がいっぱいになるとほぼ100年です。
こうしてみると、100年が、つまり人生がいかに短いかがイメージしやすくなったのではないかと思います。
人生は短いが故に、それには価値がない、あるいは極めて価値が乏しい、などとぼくは思いません。短いが故にそれは貴重で美しい。
人生にはたいして意味がない、あるいは面白みがないから、とっとと出て行きたい、という人がいます。ぼくには理解できません。あと100年もしないうちに、嫌でも人生は終わりになります。その後は心ゆくまでたっぷりと死んでいられます。それまでの数十年間、笑うこともあります。感動することもあります。それを享受しましょう!
この時期、野山のあちこちに配置された赤茶けた燭台に次々と緑の炎が燈され、山上に向かって一気に燃え広がっていきます。その光景を目にする者の魂にも、歓喜の炎が燃え上がります。この季節を、我々は、あと何回経験できるのでしょうか? あと何回、この歓喜を味わえるのでしょうか?
幼児には死の概念がないと言われています。 ぼくは、青年にも死の概念が欠如していると思います(このブログの2017年8月13日付「青春についてあれこれ思うこと」参照)。それは生命力の充溢故の錯覚です。人生には限りがあり、1日はこの上なく貴重です。1ミリ、1円、1平方センチは、無限の中に漂っている単位ではないのです。
さっさと出て行きたい、などと思っている暇に、今しか味わえない美味なる果実にかぶりつきましょうよ。