2015年12月2日水曜日

人類の愚かさについて





ある所で行なった短いスピーチの原稿です。


 ある人が、雑談の中でこういう問いを投げかけました。「様々なテクノロジーが発達した現代においても、飢えに苦しむ人々がいるのはおかしなことですね。」…確かにそのとおりだと思いました。技術的には、世界中のすべての人々に、生命と健康を維持するに足るだけの食料を供給することは十分可能だと思われます。しかし、現実には、多くの国で、多くの人が、飢えのために命を落としているのです。


 その最大の原因は人間のエゴイズムである、とぼくは思います。他人を犠牲にしてでも自分の利益を求め、それを増大させ、また独占しようとする人間の性が、飢えに苦しむ人を増加させているのです。


 それは個人単位だけの話ではありません。家族・地域共同体・企業・国家といった単位、また、政治的・宗教的・民族的・人種的・思想的な集団によるエゴイズムが、闘争や迫害を生み、貧困層を増加させています。


 そうした現状を見るにつけ、不可解な思いに苛まれます。この進歩した時代に何故?…という。


 しかし、我々は本当に進歩した時代に生きているのでしょうか? よく考えてみると、この数千年の間に進歩したのは、単に知識や科学技術だけです。人間そのものは、ほとんど、いや、まったく変わってはいません。たとえば、プラトンは2000年以上前の人間ですが、どう見てもぼくよりもはるかに賢い。人類は数百万年かけて進化してきましたが、1000年や2000年では有意な変化は期待できないでしょう。人間は、文明を築いた後にも、それ以前の野蛮さや愚かさを自らの内に囲い込んでいるのです。


 ならば、数百年前に行なわれていた虐殺や迫害や搾取などが現代においても依然として続いているのも、当然のことなのでしょう。しかも、進歩した技術が野蛮さや愚かさの道具となる時、もたらされる被害は、はるかに深刻なものとなるのです。


 とはいえ、人類の将来は、暗い見通しばかりではないと思います。


 蓄積され広められた知識は、人々の思想や気持に作用するでしょう。たとえば、古代には、世界は果てしなく広がったものだと、あるいは、果てがあるにしても、それは人間の活動圏のはるか彼方であると感じられていました。でも、今や、世界(すなわち地球)は有限かつ閉じられたものであると認識されています。それも、交通や通信の発達により、急速に小さなものとなりつつあります。資源や自然もまた、限られたものであるという認識が広がってきています。


 そうした認識が、人類の一体感を醸成し、人を様々なエゴイズムの呪縛から解き放ち、大きな隣人愛へと向かわせることを期待するのは、安易で愚かなことでしょうか?
  人間はそう簡単には進化できないとしても、心を改革することはさほど困難なことではないと思うのです。そして、それができたならば、劇的に進化するよりも、はるかに幸せな存在になれると思うのですが、これも甘い考えなのでしょうか…



2015年7月28日火曜日

豊かな人生とは





ある所で行なった短いスピーチの原稿です。


 豊かさとは何でしょうか。

 たとえば、高級なフルコース料理を食べることとか、高価な宝石を身につけることとか、豪華なホテルに滞在することとかが豊かさだと考えている人は少なくないでしょう。

 それはそれで、確かに豊かであるには違いありません。しかし、気に食わない奴とフルコース料理を食べるよりは、山や野原で、ひとりで、あるいは気の合う仲間と、クラッカーとかタコヤキとかをつまんでいる方が、ぼくにはずっと心地よいです。

 宝石は美しい。だが、葉末に宿る朝露の輝き、また、夜空にちりばめられた星たちの輝きは、宝石のそれよりもはるかに美しいと思います。

 サービスの行きとどいた立派なホテルでくつろぐのは、文句なく快適です。でも、山でテントをおったて、その中に転がりこんで、キャンドルの炎を見つめながら風が木々と戯れる声に耳を傾けるのは、それに負けず劣らず快適なことです。

 高価な物を所有することや高級な料理を食べることなどが豊かさであるとは、ぼくには思えません。

 今、享受できるものを、感謝の気持ちを持って味わうことこそが、真の豊かさではないでしょうか。つまり、豊かさとは、物や状況にではなく、心にこそ宿るものなのです。

 常に満ち足りることなく、ないものねだりばかりしている人は、どれだけ多くの物を所有しても、決して豊かな人生は送れないでしょう。

 人は皆、この多様性に満ちた世界で、無限に多くの美や快感を享受することができます。自分は既に豊かであると知ることにより、人生は豊かになるのだと思います。



 ところで、現在の自分やその状況に満足しているだけで、人間として十分なのでしょうか? 否です。

 人間には、向上心が大切です。また、チャレンジ精神や未知なるものへの好奇心も重要です。それらのおかげで(さまざまな弊害はあるにせよ)人間は、現在の高度な文化・文明を築き上げることができたのです。

 登山なり、マラソンなり、楽器や絵画なり、何かにチャレンジして、何かを成し遂げた時、または全力を出し切った時に感じる達成感や充実感は、自然の美に感動するのと同じくらいすばらしい。これもまた、人生を豊かにしてくれるものです。

 自然の中では、たとえば、プラスとマイナス、物質と反物質などのように、相反するものが対をなし、互いに作用しながらひとつの物を形作っています。人間もまた同様です。ひとりの人間の中にも、まったく違った価値観が存在し、それが作用しあい、また補い合って、選択肢を広げ、人間をよりよい方向に導こうとしているのです。

 現在を深く味わう心の平和と、困難に立ち向かう冒険心、その両方を併せ持ち、両者をうまく統合できる人こそが、完璧に豊かな人生を構築できるのだとぼくは思います。 
 
 
 

2015年6月27日土曜日

自然のすばらしさについて



   ある所で、短いスピーチを仰せつかりました。
   その原稿を掲載します。

いただいたお題の中から「自然のすばらしさをひとことで」というテーマでスピーチをさせていただきますが、ひとことで言うと1秒で終わってしまうので、もう少したくさんの言葉を使わせていただきます。


さて、自然のすばらしさを云々する前に、まずは、自然というものの定義を確認しておきましょう。


辞書で「自然」を引いてみました。その主だったものをあげると、
①「人間の手の加わらないもの」
②「人間を含めての万物」
③「他の力に依存せず、自らの内に、生成・変化・消滅の原理を有するもの」
といった定義が見出されます。まずは妥当なものだと思います。これらをしばし記憶にとどめておいてください。


さて、何かを行なう時、我々はしばしば自分自身に問いかけます。「この行為には意味あるいは価値があるのか?」と。また、自分以外の人間や組織が自分に何らかの働きかけを行なった時、我々はよく、その働きかけに対して不条理さや疑問を感じます。それは、自分や他の人の持つ価値観や方法論に無条件の信頼を置いていないからではないでしょうか。


 一方、自然が我々に対して行なう要求や働きかけに、立腹したり、不信感を抱く人がいるでしょうか? 愚か者以外に。


たとえば、生ある者はいずれは死を迎えるということを受け容れず、不老不死を願い、その方法を血眼で求めた人も、歴史上少なからずいました。彼らの中のひとりでも、自然の摂理の裏をかき、望みを叶えることができたでしょうか?
自然は、定義③にあるように、自らの内にすべての原理を有しています。「自然」という漢字がこの定義を的確に表しています。つまり「らをりとするもの」ということです。その原理を無視したり、変更したりすることは人間の望み得ることではありません。人間が自然に対して為し得ることは、自然の法則を素直に受け入れて、それに不平不満をたれたりしないこと、そして、自然をより深く理解し、自然の内に秘められている原理を窺い知り、それを役立てることです。


少し話はそれますが、ノーベル物理学賞
と化学賞のメダルのデザインをご存知でしょうか? そこには科学の女神(scientia)が、自然の女神(natura)のベールを持ち上げて、その素顔をのぞきこんでいる姿が描かれています。これは、人間(人智)と自然のあるべき関係をたいへんうまく象徴的に描いていると思います。ちなみに、scientia(スキエンティア)は英語のscience(サイエンス)に、natura(ナツーラ)は英語のnature(ネイチャー)に通じています。


ここで定義①と②を見比べてみましょう。この2つは一見矛盾しています。そして、本来ならば定義①は不要だと思われます。人間もまた自然の一部に違いないのですから。思うに、①と②の違いは、自然を定義しているのが人間であるということによる視点の相違というにとどまりません。


人間は、他の自然の存在に比べて、けた違いに強大な力を獲得しました。その力の源となったのは、人間同士が協力して自分たちの生命や勢力を維持・拡大するために構築された価値体系、すなわち社会的秩序でした。


この人間独自の価値体系が、人間社会を強固なものにする一方で、自然の価値体系から遊離していったことにより、定義①が生じたのだと、ぼくは考えています。つまり、人間社会を維持するための原理が、自然のそれと矛盾し、自然の秩序を破壊し、調和を乱すという結果をもたらしたのです。人間は自然の中で生きつつ、反自然的存在へと変貌してしまったのです。


さらに付け加えるならば、この人間社会の価値体系の根拠の多くは、恣意的、便宜的なもので、確固たる必然性を有していません。故に、先ほど述べたような、人間や人間社会に対する不信感が生じるのだと思います。


我々が「すばらしい自然」と言う時、ほとんどの場合、定義①を使っていると思います。人間の関与が感じられない自律的な世界を目の当たりにした時、我々は清新な感動を覚えます。そこにあるのは、普遍的な法則によって構築された秩序ある世界です。この「すばらしい自然」の記述が、そのまま「美」の定義となることにお気付きでしょうか?


結論です。自然のすばらしさをひとことで言います。「美しい!」



2015年3月8日日曜日

音楽のリフレッシュ効果



    ある所で、音楽の効果をテーマに
    短い発表を行ないました。
    その原稿の一部を紹介します。 

 音楽は、芸術の代表的な一分野です。そこで、まず芸術とは何かを考えてみたいと思います。

 辞書等で「芸術」を検索してみると「他人と分かち合えるような美的な物体、環境、経験をつくりだす人間の創造活動、あるいはその成果をいう。」「美を追求・表現しようとする人間の活動。およびその所産。」といった定義が見出されます。確かにその通りなのですが、もう少し踏み込んでみたいと思います。
 
 芸術の特性を考えてみましょう。芸術作品は、個性的であると同時に普遍性を有しています。また、自由でありながら秩序に従っています。そして、時間的な存在でありながら永遠(時間と対立する意味での)に属しています。どのような種類の芸術作品であっても、すぐれた作品はすべて、以上の特性を有しているはずです。
 
 ところで、芸術のこれらの特性は、芸術以外のある物の特性と完全に一致します。それが何かおわかりでしょうか? …そう、「生命」です。この一致から、芸術のより正確な定義が導き出されると思います。つまり、「芸術とは、生命の純化された表現、あるいは、生命の様態の表出である。」と言えるのではないでしょうか。そうであるからこそ、我々は、芸術作品に触れる時、魂の底から揺さぶられるような感動に見舞われ、心の浄化と生命力の充溢を感じるのです。

 少し話は飛びますが、民俗学・文化人類学において取り上げられる、「ハレ」と「ケ」という概念があります。「ケ」というのは日常のこと、「ハレ」というのは特別な日、つまり、盆や正月、節句や祭りなどのことです。現代では「ケ」はほとんど使われませんが、「ハレ」は、いわゆる「ハレの日」というような言い方で使われています。

 ケ(日常)を続けていくうちに、人間は必ず、マンネリに陥り、モチベーションは次第に低下していきます。そこで、ハレの日に、スカッとリフレッシュし、また、新鮮な気分でケに戻っていくわけです。

 この、ハレの日のリフレッシュ効果は、何も年に数回の特別な日だけにあるのではありません。たとえば、日曜日や祝日。これは立派な「ハレの日」です。また、1日の仕事の中にも、昼休みや休憩時間といった、「ハレの時間」的なものがあります。つまり、短いスパンの中でも、効果的にリフレッシュを行なうことにより、日常生活は、より新鮮で魅力的なものとすることができるのです。                  

 このハレの効果は何によってもたらされるのでしょうか? 休息もそのひとつでしょう。単にしばしケから離れることだけでも、リフレッシュ効果は期待できそうです。しかし、真のリフレッシュはもっと積極的な活動によってこそもたらされるのだと思います。

 たとえば、スポーツ。これは、いちいち解説を行なうまでもなく、誰でもがその素晴らしいリフレッシュ効果を体感したことがあるはずです。見るにつけ、行なうにつけ。

 そして、芸術です。これもまた、鑑賞するにつけ、行なうにつけ、劇的なリフレッシュ効果をもたらしてくれます。

 日本に限らず、古来より、ハレの日によく行なわれてきたのが、演劇や音楽などでした。人間は、芸術の持つ強大なパワーを大いに利用してきたのです。

 ここで、本題に戻ってきました。私たちの行なっている日常の仕事等がどんなに気高く有意義なものであっても、それを続けていくうちに、前述のように、次第にモチベーション等は低下していきます。そこに、意識的にハレの日なり時間なりを効果的に挿入することにより、日常の作業をマンネリから救出することができるのです。

 そのための手段として、音楽は最も手軽で、最も効果的なもののひとつです。聴いて楽しむ。また、気軽に参加もできる。そして、気持の表層部だけではなく、心の底に潜む生命の本質から湧き上がるパワーによってリフレッシュされるのです。

 ただし、ひとつ忘れてはならないのは、誰もが音楽大好きというわけではないということです。また、音楽好きであっても、好みは様々です。ぼくも音楽は大好きですが、聞くに堪えない曲も結構あります。無理強いは禁物です。

                              おわり