2015年6月27日土曜日

自然のすばらしさについて



   ある所で、短いスピーチを仰せつかりました。
   その原稿を掲載します。

いただいたお題の中から「自然のすばらしさをひとことで」というテーマでスピーチをさせていただきますが、ひとことで言うと1秒で終わってしまうので、もう少したくさんの言葉を使わせていただきます。


さて、自然のすばらしさを云々する前に、まずは、自然というものの定義を確認しておきましょう。


辞書で「自然」を引いてみました。その主だったものをあげると、
①「人間の手の加わらないもの」
②「人間を含めての万物」
③「他の力に依存せず、自らの内に、生成・変化・消滅の原理を有するもの」
といった定義が見出されます。まずは妥当なものだと思います。これらをしばし記憶にとどめておいてください。


さて、何かを行なう時、我々はしばしば自分自身に問いかけます。「この行為には意味あるいは価値があるのか?」と。また、自分以外の人間や組織が自分に何らかの働きかけを行なった時、我々はよく、その働きかけに対して不条理さや疑問を感じます。それは、自分や他の人の持つ価値観や方法論に無条件の信頼を置いていないからではないでしょうか。


 一方、自然が我々に対して行なう要求や働きかけに、立腹したり、不信感を抱く人がいるでしょうか? 愚か者以外に。


たとえば、生ある者はいずれは死を迎えるということを受け容れず、不老不死を願い、その方法を血眼で求めた人も、歴史上少なからずいました。彼らの中のひとりでも、自然の摂理の裏をかき、望みを叶えることができたでしょうか?
自然は、定義③にあるように、自らの内にすべての原理を有しています。「自然」という漢字がこの定義を的確に表しています。つまり「らをりとするもの」ということです。その原理を無視したり、変更したりすることは人間の望み得ることではありません。人間が自然に対して為し得ることは、自然の法則を素直に受け入れて、それに不平不満をたれたりしないこと、そして、自然をより深く理解し、自然の内に秘められている原理を窺い知り、それを役立てることです。


少し話はそれますが、ノーベル物理学賞
と化学賞のメダルのデザインをご存知でしょうか? そこには科学の女神(scientia)が、自然の女神(natura)のベールを持ち上げて、その素顔をのぞきこんでいる姿が描かれています。これは、人間(人智)と自然のあるべき関係をたいへんうまく象徴的に描いていると思います。ちなみに、scientia(スキエンティア)は英語のscience(サイエンス)に、natura(ナツーラ)は英語のnature(ネイチャー)に通じています。


ここで定義①と②を見比べてみましょう。この2つは一見矛盾しています。そして、本来ならば定義①は不要だと思われます。人間もまた自然の一部に違いないのですから。思うに、①と②の違いは、自然を定義しているのが人間であるということによる視点の相違というにとどまりません。


人間は、他の自然の存在に比べて、けた違いに強大な力を獲得しました。その力の源となったのは、人間同士が協力して自分たちの生命や勢力を維持・拡大するために構築された価値体系、すなわち社会的秩序でした。


この人間独自の価値体系が、人間社会を強固なものにする一方で、自然の価値体系から遊離していったことにより、定義①が生じたのだと、ぼくは考えています。つまり、人間社会を維持するための原理が、自然のそれと矛盾し、自然の秩序を破壊し、調和を乱すという結果をもたらしたのです。人間は自然の中で生きつつ、反自然的存在へと変貌してしまったのです。


さらに付け加えるならば、この人間社会の価値体系の根拠の多くは、恣意的、便宜的なもので、確固たる必然性を有していません。故に、先ほど述べたような、人間や人間社会に対する不信感が生じるのだと思います。


我々が「すばらしい自然」と言う時、ほとんどの場合、定義①を使っていると思います。人間の関与が感じられない自律的な世界を目の当たりにした時、我々は清新な感動を覚えます。そこにあるのは、普遍的な法則によって構築された秩序ある世界です。この「すばらしい自然」の記述が、そのまま「美」の定義となることにお気付きでしょうか?


結論です。自然のすばらしさをひとことで言います。「美しい!」



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