スポーツや何かの技芸に取り組んでいる人は、必ず何度か壁にぶち当たります。そして、もがき苦しんでそれを乗り越えることによって、前進を果たすのです。
高まること、そのために努力することは、美しく感動的です。しかし、人は無限に進歩を続けられるわけではありません。どこかに限界があります。いつかは越えられぬ壁に行く手を遮られます…
多くの人は、前進しながらも、彼方に、あるいはすぐ近くに、決して越えることのできないひとすじの線を見ています。
その「限界線」をそこに置いたのは誰でしょうか? 物理法則? 生理学的帰結? 運命? 神?
「自分の限界は自分がいちばんよく知っている」という言葉をよく聞きます。その言葉の真の意味は「自分で決めた限界は越えられない」ということです。つまり人は、自分の信念を実現しようとするものだからです。信念を持って「だめだ」と思ったら、本当にだめになってしまいます。
そもそも、その限界線をそこに設定した根拠は何でしょうか? その問いに明快に答えられないのならば、もう一度、その線の設置場所もしくは設置自体の妥当性を検討してみてもいいと思います。
少し、ぼくの経験を話させてください。
高校時代のある時、クラブ活動で山道を走っていました(ある運動部に所属していたので)。かなりの急坂を登り、バテバテになりました。「もう限界だ!もう足が上がらん」と立ち止まりかけたその時です。横の茂みから突然、小さな猿がぼくの足元に飛び出してきました(そのあたりは野猿の生息地だったのです)。明らかに幼い子猿で、ぼくの足音に驚いて見当違いの方に走り出てしまったのでしょう。猿をけとばしそうになったぼくも驚きましたが、その直後に、はるかに大きな驚きと恐怖がぼくを待っていたのです。子猿が飛び出してきた所から、続いて大きな母猿が、顔を真っ赤にして(もともとですね)鬼の形相で飛び出して、ぼくに向かって突進してきたのです! 「いや、誤解ですよ。お子さんをいじめてたわけじゃないんですよ…」などと言い訳をする余裕は全くありませんでした。脱兎の如く逃げる逃げる…数秒ダッシュしてチラと振り返ると、母猿は子供の方へ引き返すところでした。それを見てぼくもペースダウンしましたが、確実に危険区域を脱したと思われるまで、さらに数分走り続けました。そして道に座り込んで汗を拭いながら思ったのでした。猿を振り切ったあのダッシュは我ながらすばらしいものだった! で、あの「限界だ!」はいったい何だったんだろう?
自分で思う限界とは、そうしたものなのではないでしょうか。
先にも述べたように、いつかは本当の限界線に遭遇するでしょう。でも、それは自分で決めるものではないと思います。決めてはいけないと思います。
最後に、有名な「ニーバーの祈り」を引用したいと思います。
変えることのできるものを変える勇気と
変えることのできないものを受け入れる冷静さを
そしてそれらを区別する叡智を!