2017年8月30日水曜日

自分の限界とは?






 スポーツや何かの技芸に取り組んでいる人は、必ず何度か壁にぶち当たります。そして、もがき苦しんでそれを乗り越えることによって、前進を果たすのです。

 高まること、そのために努力することは、美しく感動的です。しかし、人は無限に進歩を続けられるわけではありません。どこかに限界があります。いつかは越えられぬ壁に行く手を遮られます…


 多くの人は、前進しながらも、彼方に、あるいはすぐ近くに、決して越えることのできないひとすじの線を見ています。

  その「限界線」をそこに置いたのは誰でしょうか? 物理法則? 生理学的帰結? 運命? 神?     ぼくが思うには、多くの場合、それは自分自身です。

 「自分の限界は自分がいちばんよく知っている」という言葉をよく聞きます。その言葉の真の意味は「自分で決めた限界は越えられない」ということです。つまり人は、自分の信念を実現しようとするものだからです。信念を持って「だめだ」と思ったら、本当にだめになってしまいます。

 そもそも、その限界線をそこに設定した根拠は何でしょうか? その問いに明快に答えられないのならば、もう一度、その線の設置場所もしくは設置自体の妥当性を検討してみてもいいと思います。

 少し、ぼくの経験を話させてください。

 高校時代のある時、クラブ活動で山道を走っていました(ある運動部に所属していたので)。かなりの急坂を登り、バテバテになりました。「もう限界だ!もう足が上がらん」と立ち止まりかけたその時です。横の茂みから突然、小さな猿がぼくの足元に飛び出してきました(そのあたりは野猿の生息地だったのです)。明らかに幼い子猿で、ぼくの足音に驚いて見当違いの方に走り出てしまったのでしょう。猿をけとばしそうになったぼくも驚きましたが、その直後に、はるかに大きな驚きと恐怖がぼくを待っていたのです。子猿が飛び出してきた所から、続いて大きな母猿が、顔を真っ赤にして(もともとですね)鬼の形相で飛び出して、ぼくに向かって突進してきたのです! 「いや、誤解ですよ。お子さんをいじめてたわけじゃないんですよ…」などと言い訳をする余裕は全くありませんでした。脱兎の如く逃げる逃げる…数秒ダッシュしてチラと振り返ると、母猿は子供の方へ引き返すところでした。それを見てぼくもペースダウンしましたが、確実に危険区域を脱したと思われるまで、さらに数分走り続けました。そして道に座り込んで汗を拭いながら思ったのでした。猿を振り切ったあのダッシュは我ながらすばらしいものだった! で、あの「限界だ!」はいったい何だったんだろう?

 自分で思う限界とは、そうしたものなのではないでしょうか。

 先にも述べたように、いつかは本当の限界線に遭遇するでしょう。でも、それは自分で決めるものではないと思います。決めてはいけないと思います。

 最後に、有名な「ニーバーの祈り」を引用したいと思います。


      変えることのできるものを変える勇気と
      変えることのできないものを受け入れる冷静さを
      そしてそれらを区別する叡智を!





2017年8月27日日曜日

冒険について思う諸々のこと




 最近「冒険」という言葉や文字を見聞きすることがほとんどないように感じます。そのかわりに「安全」とか「安定」という言葉を見聞きする機会が増えたように思います。こういうところにも時代が反映されているような気がします。

 まずは「冒険」の意味を検索してみました。すると「危険を承知で何かをすること」「成否が不確かなことを敢えて行うこと」といったところが定義とされていました。

 これにひとつ付け加えるなら、危険を正しく認識せず、また、それへの対策を充分に練りもせずに無闇矢鱈に突っ走るのは、冒険ではなく、無謀もしくは愚行です。

 ぼくがまだ若かりし頃、冒険は概念ではなく、ごく普通に日常の一部でした。そして冒険こそが人生の最重要事項だった時期もありました。まあ、往々にして、それは無謀や愚行に傾きがちだったのですが…

 若者は(先日もこのブログに書きましたが)上昇する者です。上昇には多くの場合危険がつきまといます。その危険を克服して上昇することが、若者の歓喜の源のひとつです。


 かつてぼくは、ロッククライミングにのめり込んでいました。その頃のひとつのエピソードです。

 ある時、高さ50メートルほどでほぼ垂直だけれど比較的簡単だと思われたルートを単独(ノーザイル)で登りました(無謀な行為です!)。順調に登って行ったのですが、残りあと僅かというところで、かなり困難な部分に遭遇してしまいました。わずか1センチほどのホールド(手がかり)と不安定なスタンス(足がかり)に命を預けて、次の大きなホールドまで体を持ち上げなければならないのです。降りるのはより困難。行くしかありません。何度もホールドとスタンスの感触を確かめ、気を集中し、指に「絶対離すなよ」と言い聞かせて、思い切って体を持ち上げ、大きなホールドをなんとか掴みました。やれやれやれ…助かった…

 そうした大ピンチの時、ツーンと硫黄のような臭いがあたりに漂います。いわゆる「死の臭い」です。そして周囲に深い闇が拡がるのを感じます。「死の淵」です

 もちろん、そんな経験はもう2度とごめんだと思うのですが、その経験が、ロッククライミングの真の魅力を提示してくれたのです。

 それは「コントラスト」です。生と死のコントラストです。普段は社会や組織の中で薄ぼんやりと漂っている自分の命が、暗い死の淵をバックにした時、まばゆい珠玉の輝きと感じられたのです。

 冒険心は、人類の進歩を促す原動力のひとつです。故に、冒険は、若者ならずとも、人の心を熱く燃え立たせます。他人の冒険談でも、聞けば心浮き立つのではないでしょうか。
  
 全く冒険と無縁な人生は、味気なくつまらないと思います。だからといって、ゲーム機でピコピコと冒険をするのは、それこそ愚昧の極みだとぼくには感じられます。あんなのはバカになる危険を冒すという類の冒険ですね。身体能力どころか、脳みそを使うことさえありません。

 ま、それはともかく、本物の冒険は心を高揚させ、自分の存在を確たるものと感じさせてくれます。危険が伴なうものゆえ冒険をお勧めはしませんが、冒険の意味と価値についてじっくり考えてみることはお勧めします。



  

2017年8月19日土曜日

恋について




 さてさて、たいへんなお題をいただいてしまいました。この深遠なるテーマを与えられた時間内で お話しするのはぼくにとっては至難の業です。でも、がんばってみましょう。

 古来、このテーマについては、数多の人が論じつくし、今さらぼくごときが何を付け加えることができるでしょうか。何を言っても二番煎じ以下でしかありません。

 しかしながら、恋のプロパティーはあまりにも広範かつ膨大で、さらに、多くのパラドックスを包含していることが、多くの人にとって、それの正しい認識の阻害要因になっていると思われます。つまり、人間にとって身近で周知の存在である恋は、結構、正しく認識されていない場合が多いのではないかと、ぼくは感じるのです。

 ともあれ、ぼくが、強調しておくべきだと感じる、恋の一側面を述べてみます。

 よく「私は恋をした」という言葉を見たり聞いたりしますが、これは妥当な表現とは言えません。なぜなら、恋は人間の主体的な行為や想念ではないからです。

 人が恋をするのではありません。恋が人に襲いかかり、人に取り憑き、人を支配し、人を翻弄し、そして少なからぬ確率で人を滅ぼすのです。

 人に、恋をするか否かの選択権はありません。恋自身が欲する時、欲する人を捕らえるのです。また、恋に対する抵抗や無視は不可能で、制御法も逃げ道も存在しません。

 「いや、そんなことはない。私は恋を理性で制御した」と反論する人もいらっしゃるでしょう。そういう人にはこう申し上げたい。「あなたは実際には恋はしていません。あなたが恋だと思っているのは、単にある種の欲望か打算にすぎないのです」

 恋のことを、あたかも暴君か寄生虫かウイルスのように言いましたが、恋がそういう面を持つことは否定できません。ですが、その一方で、全く違った面を恋は有しています。


 恋は世界を美しく彩ります。恋する人は詩人となり、今まで平凡さの砂に埋もれていたものすべてが、清新な輝きを発するのを目のあたりにします。世界は恋を中心に回転を始め、すべてのものに新たな秩序と価値と生命が吹き込まれます。


 人間は、自らの人生を、本当に主体的に選択し得るものなのでしょうか。恋の魔力に思いを馳せる時、自由な意思というものについての常識的な信念が揺らぐのを感じます。 運命という言葉が具体的な力として最も強く感じられるのは、他でもない、恋をしている時なのではないでしょうか。

 恋は、例えるならば、巨大な雪崩のようなものです。それは音もなく我々に忍び寄り、気付かぬうちに我々を巻き込み、抗いようのない力で我々を押し流すのです。それが我々を何処に運び去るのかは定かではありません。闇黒の冥界でしょうか? あるいは安息の楽園でしょうか? 

 そして、恋することは、自らの内に消すことのできない炎を宿すことです。その炎は人を焼き尽くすのでしょうか? それとも焼き清めるのでしょうか? これもまた定かではありません。

 皆さんがまだ恋をしたことがないとしてお尋ねしますが、以上のことを承知した上で、それでも、恋をしたいと思いますか?

 その答えがどちらであれ、皆さんの希望を恋はまったく考慮してはくれないのですが… 



        ご静聴ありがとうございました。     





2017年8月13日日曜日

青春についてあれこれ思うこと



 最近、ふと気がつくと、青春についてあれこれ考えていることがよくあります。おそらく、青春を主観的に主張することが困難な年齢となってしまったことへの嫌気と抗議の念がふつふつと湧き上がってきているのでしょう。


 高校時代に読んだヘルマン・ヘッセの小説にロレンツォ・メディチの言葉が引用されていて、それが未だに心に残っています。

      青春はいかばかりうるわしき
      されどそははかなく過ぎゆく
      楽しからん者は楽しめ
      明日の日は確かならず

 当時、この言葉に深い感銘を受けたにもかかわらず、その後の長い年月、ぼくは惰眠を貪り続け、人生の最もうるわしき時間を無駄に食いつぶしてしまったのでした。青春時代という繊細な糸は、有意な行為によって紡ぎ止められることなく、もつれ、こんがらがって、何処かへかき消えてしまいました。

 今、初めて読んだ時とは違う視点で「そ〜なんだよな〜」とため息まじりに思います。人間というものは      いや、ぼくという人間は、やがて手遅れになるとわかっていても、実際に手遅れになってからでないと本当の緊迫感を持てない生き物なのでしょうかねえ…


 かなり以前に書いた文章の一部を掲載します。

★ ★ ★

 若者とは、上昇する者のことである。上昇する者は常に軽やかで、行く手には、光に満ち、無限に広がる天空を見ている。

 そこで若者は、これが人生の唯一のあり方だとたあいもなく信じこんでしまう。若者にとっては、人生は永遠であり、無限の可能性に満ちている。「死」や「限界」は虚しい言葉にすぎず、理屈では分かっていても、真に実感を伴なって理解することはできない。

 故に、若者はしばしば「生」の浪費へと走りがちになる。若者が主義や一時的な感情の高ぶりのために簡単に命を投げ出したり大きな危険を冒したりする場合が多いのも、生命力の過剰のために、死を正しく、真剣に受け止めることができないからではないだろうか。光に酔っている者は影を平面的にしか捉えず、その恐るべき深さに思い至らないのだ。

 だが、やがて上昇は止まり、下降が始まる。その時になって、我々は初めて人生のもうひとつの姿に気づくのである。

 軽やかさは失われ、視界も一変する。今や我々の行く手に待ち受けているのは、暗く、荒涼たる大地である。それは今のところどれだけ遠く隔たって見えようとも、やがて行き着くべき終着点に、常に我々の思いを至らしめる。


 だが、そうして人生の有限性をはっきりと認識することによって、同時に我々は、現在の「時」の貴重さ、美しさにも初めて気づくことができるのだ。人生はいかにもはかない。が、はかないが故に(ベートーベンの言う如く)「千度も生きたいほど美しい」。されば我々は、我々に許されたこのただ1度の人生を、千倍もよく生きなければならない。

★ ★ ★

 基本的に、今も上に述べた考えは大きく変わってはいません。 青春とは、高まろうとする意志なのだと思います。


 ぼくのある知り合いは、現在60代前半なのですが、先日、雑談の中で面白い話をしてくれました。

 彼は、2年ほど前、ある所でたまたま握力計を見つけて おりゃ〜〜! と握ってみました。その結果、握力が全盛期より25キロほども落ちているという現実を突きつけられました。


  愕然とした彼は、ほどなく、かなり強力なハンドグリップを買い込みました。初めはそれを半分も握ることができなかったのですが、最後まで握り切ることを目標に、暇な時間に うんが〜 と顔を真赤にして小さなバネと格闘し、最近、ついに目標達成したということです。

 もちろん、全盛期のパワーを取り戻すまでには全く至らないのですが、60歳を過ぎてもまだ筋力アップが可能なことが証明できた!! と悦に入っていました。

 彼の次の目標は、全盛期の4分の1ほどに落ちていた懸垂回数を、2分の1まで持ち直すことだそうです。これもすでに進行中で、現在、3分の1くらいまで達成しているということです。

 青春してますよね〜!

 

 青春とは、ただ、人生におけるある限られた幅の年齢を指すだけの言葉ではありません。ひとたび青春に別れを告げても、あるいは告げられても、明らかな下降が始まってからでも、青春は、何度でもそれを求める人に微笑んでくれるものなのです。

 これも高校時代に読んだのですが、トーマス・マンの小説の中に、こういう言葉がありました。

    ひとたび学生たりし者  常に学生なり

 この言葉を少しもじって、ぼくはこう言いたいと思います。

    ひとたび青年たりし者  常に青年なり!

 青春に年齢制限はありません。