2017年8月19日土曜日

恋について




 さてさて、たいへんなお題をいただいてしまいました。この深遠なるテーマを与えられた時間内で お話しするのはぼくにとっては至難の業です。でも、がんばってみましょう。

 古来、このテーマについては、数多の人が論じつくし、今さらぼくごときが何を付け加えることができるでしょうか。何を言っても二番煎じ以下でしかありません。

 しかしながら、恋のプロパティーはあまりにも広範かつ膨大で、さらに、多くのパラドックスを包含していることが、多くの人にとって、それの正しい認識の阻害要因になっていると思われます。つまり、人間にとって身近で周知の存在である恋は、結構、正しく認識されていない場合が多いのではないかと、ぼくは感じるのです。

 ともあれ、ぼくが、強調しておくべきだと感じる、恋の一側面を述べてみます。

 よく「私は恋をした」という言葉を見たり聞いたりしますが、これは妥当な表現とは言えません。なぜなら、恋は人間の主体的な行為や想念ではないからです。

 人が恋をするのではありません。恋が人に襲いかかり、人に取り憑き、人を支配し、人を翻弄し、そして少なからぬ確率で人を滅ぼすのです。

 人に、恋をするか否かの選択権はありません。恋自身が欲する時、欲する人を捕らえるのです。また、恋に対する抵抗や無視は不可能で、制御法も逃げ道も存在しません。

 「いや、そんなことはない。私は恋を理性で制御した」と反論する人もいらっしゃるでしょう。そういう人にはこう申し上げたい。「あなたは実際には恋はしていません。あなたが恋だと思っているのは、単にある種の欲望か打算にすぎないのです」

 恋のことを、あたかも暴君か寄生虫かウイルスのように言いましたが、恋がそういう面を持つことは否定できません。ですが、その一方で、全く違った面を恋は有しています。


 恋は世界を美しく彩ります。恋する人は詩人となり、今まで平凡さの砂に埋もれていたものすべてが、清新な輝きを発するのを目のあたりにします。世界は恋を中心に回転を始め、すべてのものに新たな秩序と価値と生命が吹き込まれます。


 人間は、自らの人生を、本当に主体的に選択し得るものなのでしょうか。恋の魔力に思いを馳せる時、自由な意思というものについての常識的な信念が揺らぐのを感じます。 運命という言葉が具体的な力として最も強く感じられるのは、他でもない、恋をしている時なのではないでしょうか。

 恋は、例えるならば、巨大な雪崩のようなものです。それは音もなく我々に忍び寄り、気付かぬうちに我々を巻き込み、抗いようのない力で我々を押し流すのです。それが我々を何処に運び去るのかは定かではありません。闇黒の冥界でしょうか? あるいは安息の楽園でしょうか? 

 そして、恋することは、自らの内に消すことのできない炎を宿すことです。その炎は人を焼き尽くすのでしょうか? それとも焼き清めるのでしょうか? これもまた定かではありません。

 皆さんがまだ恋をしたことがないとしてお尋ねしますが、以上のことを承知した上で、それでも、恋をしたいと思いますか?

 その答えがどちらであれ、皆さんの希望を恋はまったく考慮してはくれないのですが… 



        ご静聴ありがとうございました。     





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