2017年8月13日日曜日

青春についてあれこれ思うこと



 最近、ふと気がつくと、青春についてあれこれ考えていることがよくあります。おそらく、青春を主観的に主張することが困難な年齢となってしまったことへの嫌気と抗議の念がふつふつと湧き上がってきているのでしょう。


 高校時代に読んだヘルマン・ヘッセの小説にロレンツォ・メディチの言葉が引用されていて、それが未だに心に残っています。

      青春はいかばかりうるわしき
      されどそははかなく過ぎゆく
      楽しからん者は楽しめ
      明日の日は確かならず

 当時、この言葉に深い感銘を受けたにもかかわらず、その後の長い年月、ぼくは惰眠を貪り続け、人生の最もうるわしき時間を無駄に食いつぶしてしまったのでした。青春時代という繊細な糸は、有意な行為によって紡ぎ止められることなく、もつれ、こんがらがって、何処かへかき消えてしまいました。

 今、初めて読んだ時とは違う視点で「そ〜なんだよな〜」とため息まじりに思います。人間というものは      いや、ぼくという人間は、やがて手遅れになるとわかっていても、実際に手遅れになってからでないと本当の緊迫感を持てない生き物なのでしょうかねえ…


 かなり以前に書いた文章の一部を掲載します。

★ ★ ★

 若者とは、上昇する者のことである。上昇する者は常に軽やかで、行く手には、光に満ち、無限に広がる天空を見ている。

 そこで若者は、これが人生の唯一のあり方だとたあいもなく信じこんでしまう。若者にとっては、人生は永遠であり、無限の可能性に満ちている。「死」や「限界」は虚しい言葉にすぎず、理屈では分かっていても、真に実感を伴なって理解することはできない。

 故に、若者はしばしば「生」の浪費へと走りがちになる。若者が主義や一時的な感情の高ぶりのために簡単に命を投げ出したり大きな危険を冒したりする場合が多いのも、生命力の過剰のために、死を正しく、真剣に受け止めることができないからではないだろうか。光に酔っている者は影を平面的にしか捉えず、その恐るべき深さに思い至らないのだ。

 だが、やがて上昇は止まり、下降が始まる。その時になって、我々は初めて人生のもうひとつの姿に気づくのである。

 軽やかさは失われ、視界も一変する。今や我々の行く手に待ち受けているのは、暗く、荒涼たる大地である。それは今のところどれだけ遠く隔たって見えようとも、やがて行き着くべき終着点に、常に我々の思いを至らしめる。


 だが、そうして人生の有限性をはっきりと認識することによって、同時に我々は、現在の「時」の貴重さ、美しさにも初めて気づくことができるのだ。人生はいかにもはかない。が、はかないが故に(ベートーベンの言う如く)「千度も生きたいほど美しい」。されば我々は、我々に許されたこのただ1度の人生を、千倍もよく生きなければならない。

★ ★ ★

 基本的に、今も上に述べた考えは大きく変わってはいません。 青春とは、高まろうとする意志なのだと思います。


 ぼくのある知り合いは、現在60代前半なのですが、先日、雑談の中で面白い話をしてくれました。

 彼は、2年ほど前、ある所でたまたま握力計を見つけて おりゃ〜〜! と握ってみました。その結果、握力が全盛期より25キロほども落ちているという現実を突きつけられました。


  愕然とした彼は、ほどなく、かなり強力なハンドグリップを買い込みました。初めはそれを半分も握ることができなかったのですが、最後まで握り切ることを目標に、暇な時間に うんが〜 と顔を真赤にして小さなバネと格闘し、最近、ついに目標達成したということです。

 もちろん、全盛期のパワーを取り戻すまでには全く至らないのですが、60歳を過ぎてもまだ筋力アップが可能なことが証明できた!! と悦に入っていました。

 彼の次の目標は、全盛期の4分の1ほどに落ちていた懸垂回数を、2分の1まで持ち直すことだそうです。これもすでに進行中で、現在、3分の1くらいまで達成しているということです。

 青春してますよね〜!

 

 青春とは、ただ、人生におけるある限られた幅の年齢を指すだけの言葉ではありません。ひとたび青春に別れを告げても、あるいは告げられても、明らかな下降が始まってからでも、青春は、何度でもそれを求める人に微笑んでくれるものなのです。

 これも高校時代に読んだのですが、トーマス・マンの小説の中に、こういう言葉がありました。

    ひとたび学生たりし者  常に学生なり

 この言葉を少しもじって、ぼくはこう言いたいと思います。

    ひとたび青年たりし者  常に青年なり!

 青春に年齢制限はありません。



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