2022年9月17日土曜日

いと短く美しき人生


この文章は春先に書いて、しばらく放置していました。

そのため、季節感が変になってしまった部分があります。

ご宥恕のほどを…

  

 人生はまあまあ長くておおよそ100年です。100年と言っても、なかなかイメージしにくいかもしれません。わかりやすくしてみましょう。

  高さ36.5メートルのキャンドルがあります。点火されるとⅠ日にⅠミリずつ減っていきます。全部燃え尽きると100年です。

 手持のお金が36,500円あります。1日に1円ずつ税金を払います。 お金がなくなると100年です。

 縦横191センチの台紙に縦横1センチのシールを1日に1枚、隙間なく貼っていきます。台紙がいっぱいになるとほぼ100年です。 

 こうしてみると、100年が、つまり人生がいかに短いかがイメージしやすくなったのではないかと思います。

 人生は短いが故に、それには価値がない、あるいは極めて価値が乏しい、などとぼくは思いません。短いが故にそれは貴重で美しい。

  人生にはたいして意味がない、あるいは面白みがないから、とっとと出て行きたい、という人がいます。ぼくには理解できません。あと100年もしないうちに、嫌でも人生は終わりになります。その後は心ゆくまでたっぷりと死んでいられます。それまでの数十年間、笑うこともあります。感動することもあります。それを享受しましょう!

 この時期、野山のあちこちに配置された赤茶けた燭台に次々と緑の炎が燈され、山上に向かって一気に燃え広がっていきます。その光景を目にする者の魂にも、歓喜の炎が燃え上がります。この季節を、我々は、あと何回経験できるのでしょうか? あと何回、この歓喜を味わえるのでしょうか? 

 幼児には死の概念がないと言われています。 ぼくは、青年にも死の概念が欠如していると思います(このブログの2017年8月13日付「青春についてあれこれ思うこと」参照)。それは生命力の充溢故の錯覚です。人生には限りがあり、1日はこの上なく貴重です。1ミリ、1円、1平方センチは、無限の中に漂っている単位ではないのです。

  さっさと出て行きたい、などと思っている暇に、今しか味わえない美味なる果実にかぶりつきましょうよ。

 

 

2022年9月13日火曜日

ネオン街徘徊ノススメ

  よく晴れた日の早朝、草原に無数の朝露が宿っていることがよくあります。そこに陽光が注ぐと、それらはこの世のものとは思えない清新なきらめきを放ちます。歴史上最も豪華な王冠にはめ込まれた最も高価な宝石も、その前ではくすんで見えることでしょう。その至高の美が、無数に足元に広がっているのです。この世で最も美しい光景のひとつです。そして、そのきらめきを眺めながら散策しているひとときは(ぼくは、それをネオン街徘徊と称していますが)人生で最も幸福な瞬間のひとつです。

 みなさんも、よく晴れた日には、ちょっと早起きして、草原を散策してみてください。人生最高級の幸福な瞬間を味わえるかもしれません。

 

 

2018年2月10日土曜日

我慢をすれば楽になる



 秋口から初冬にかけて、ぼくは極力薄着で過ごすように努めています。よく「寒くないんですか?」と尋ねられますが、素直に「寒いです」と答えます。

 寒いのになぜ薄着でいるかというと「寒いのが嫌いだからです」

 人間は環境に順応します。たとえば、真夏に15度になると、大概の人は(暑いのに慣れているため)寒いと感じるでしょう。でも、真冬に15度になると(寒さに慣れているため)暑いと感じるのが普通ではないでしょうか。

 その順応機能を最大限に活用しない手はありません。夏が終わり、冷たい風が少し肌にしみるな、と感じた時、多くの人は服を着込みます。そうすることによって、順応機能は十分に活性化しないままになってしまいます。その時こそ、薄着で少し我慢をすれば、体は寒さに慣れていきます。その結果、真冬の寒さがそれほどこたえなくなるのです。

 ぼくが寒くなりはじめの頃に薄着で過ごす理由を、これでおわかりいただけたかと思います。


 

 ぼくはお酒を飲むのが好きです。で、以前は毎日お酒を飲んでいました。

 その結果、健康診断で肝臓の数値が少し悪いと言われ、また、体型も体重も、標準より少しはみ出してしまいました。

 そこで、自分なりのルールを設定し、お酒を飲むのは、休日とその前日のみとしました。

 その結果、飲酒量が減り、肝臓の数値も体型も体重もかなり改善しました。

 でも、それ以外に、思わぬある効果がありました。お酒を飲むのが以前よりずっと楽しくなったのです。

 平日に我慢することにより、週末の解禁日はワクワクするスペシャルデーとなりました。解禁日にぐっとグラスを傾けると、毎日飲んでいた時の数十倍の幸福感を味わえます。毎日飲むより幸福感の総量大幅アップです。




 制限することは、不自由になることばかりではありません。我慢をすることにより、人生がより充実し、快適になることも多くあります。目先の欲望に振り回されず、ちょっと先を見るようにすれば、より良い未来がゲットできる場合がある、ということを頭の片隅においておいても、損はないような気がします。



2017年9月20日水曜日

冬山テント大爆発!




 かなり以前のことです。完全実話です。

 ある年の大晦日、ぼくは2人の山仲間とともに、標高1000メートルちょいの山に登りました。雪山で年を越そうというロマンあふれる企画でした。

 順調に頂上を極め、少し下って雪の上にテントを張りました。それまで主流だった三角テントに代わって普及し始めたばかりのドームテントでした。

 テントに入ると、さっそく大宴会を始めました。忘年会からそのまま新年会になだれ込むという壮大な計画でした。

 もちろん、たいした料理はありません。落花生、チーズ、スルメ、ホタテの紐の干物、チクワ、ポテトチップス等がメイン料理です。貧相だと思われるかもしれませんが、テント内では十分なご馳走です。山の澄んだ大気がそれらに魔法をかけ、この上なく美味に感じさせ、最高に豊かな気分にさせてくれます。

 テントの外では雪がチラチラと舞い、結構寒いのですが、テント内ではガソリンコンロが楽しげにさえずりながら心地よい暖気を吐き出しています。その唄に合わせてキャンドルの炎が魅惑的なダンスを披露しています。そしてビールを理想的な温度に冷やす雪に不自由はしません。

 我々は楽しく宴会を続けていましたが、しばらくしてちょっとした問題が持ちあがりました。酒が足りなくなってきたのです。     解決策はただひとつ。誰かが買いに行くことです。

 幸い、酔っぱらいの足でも15分ほどの所に山小屋があり、そこで武力行使なしで酒の補充が可能でした。

 世にも麗しき犠牲精神の持ち主であるぼくが、この大任を引き受けました。

 ところで、酒が足りなくなるというトラブルの前に、実はもうひとつのトラブルに我々は見舞われていたのです。

 我々は、各自、ヘッドランプを1個ずつ持参していました。当時、その光源はまだLEDではなく、豆電球でした。そして2人は予備の豆電球を1個ずつ持っていました。豆電球はLED と違い、よく球切れを起こすのです。

 どういうわけか、この日、その球切れが続発し、ひと晩のうちに3個の豆電球がおシャカになっていたのでした。

 この球切れブームが買い出しの道中でも続いたら危険なことになります。月もない山の夜道は真の闇なのですから。で、ぼくは残ったヘッドランプを2個とも持って行くことにしました。テント内はキャンドルがあるので不自由はありません(ないはずでした)。財布も忘れずに持ち、いざ出陣!

 さて、ぼくが出発してほどなく、テント内で気持ちよくさえずっていたガソリンコンロが、あえぐような声を出し始めました。これはトラブルではなく、単なるガス欠です。で、ひとりがガソリンの注入にかかりました。

 引火を防ぐため、キャンドルに背を向け、テントの隅に寄り、さらに換気のため出入り口を開け、ガソリン容器からコンロにガソリンを注ぎ始めました。が、ヘッドランプがなく手元が暗がりだったため、彼は、ガソリンが注入口からこぼれ、テント内に小さな川を作っていることに全く気付きませんでした。

 その時、一陣の風がテント内に吹き込み、キャンドルの炎を吹き消してしまいました。で、もうひとりが、キャンドルに再点火しようとしてライターを取り出し「カチッ」と着火しました。その瞬間…

 どっか〜ん!

 ……ぼくは、無事に任務を終え、酒を両手にぶら下げ、千鳥足でテントに戻ってきました。さあ、飲みなおすぞ〜! でも、戻って目にした光景はといえば…

 テントはグシャグシャにひしゃげ、しかも大小の穴だらけでした。そしてふたりの仲間はテントの外でうずくまっていました。先ほどまでふたりの頭髪はごく普通のストレートだったのですが、今はふたりとも見事なパンチパーマとなっていました。あちこちに火傷を負っていましたが、幸い軽度で、病院での治療は必要のない程度でした。

 ふたりは爆発の次の瞬間、開けていた出入り口から飛び出し、ひとりがテント内の火を消すため上からのしかかってテントを押し潰したのでした。この一連の判断と速やかな行動が良かったため、負傷も軽く済み、また、すべての装備が丸焼けとなることを免れたのでした。

 飲み直すという雰囲気は吹っ飛んでしまいました。折れたり曲がったりしたテントのポールをできる限り修復し、なんとか中に入れる状態にして、テント内を片付けると、シュラフ(寝袋)にくるまって早々に寝る段取りとなりました。

 その頃から、雪が本格的に降り始め、テントの穴からシュラフに積もってゆきました。    冷たかった。

 翌日、スゴスゴと下山しました。帰りの電車内は元旦らしく着飾った晴れやかな表情の人たちでいっぱいでした。その中で、あちこち焦げ目のついたニッカボッカでパンチパーマのふたりは、結構注目を集めていました。

 さて、この話から学ぶべき教訓の第1は、もちろん

「山で宴会をするならば酒はたっぷり用意するべし」

 ですよね…





2017年8月30日水曜日

自分の限界とは?






 スポーツや何かの技芸に取り組んでいる人は、必ず何度か壁にぶち当たります。そして、もがき苦しんでそれを乗り越えることによって、前進を果たすのです。

 高まること、そのために努力することは、美しく感動的です。しかし、人は無限に進歩を続けられるわけではありません。どこかに限界があります。いつかは越えられぬ壁に行く手を遮られます…


 多くの人は、前進しながらも、彼方に、あるいはすぐ近くに、決して越えることのできないひとすじの線を見ています。

  その「限界線」をそこに置いたのは誰でしょうか? 物理法則? 生理学的帰結? 運命? 神?     ぼくが思うには、多くの場合、それは自分自身です。

 「自分の限界は自分がいちばんよく知っている」という言葉をよく聞きます。その言葉の真の意味は「自分で決めた限界は越えられない」ということです。つまり人は、自分の信念を実現しようとするものだからです。信念を持って「だめだ」と思ったら、本当にだめになってしまいます。

 そもそも、その限界線をそこに設定した根拠は何でしょうか? その問いに明快に答えられないのならば、もう一度、その線の設置場所もしくは設置自体の妥当性を検討してみてもいいと思います。

 少し、ぼくの経験を話させてください。

 高校時代のある時、クラブ活動で山道を走っていました(ある運動部に所属していたので)。かなりの急坂を登り、バテバテになりました。「もう限界だ!もう足が上がらん」と立ち止まりかけたその時です。横の茂みから突然、小さな猿がぼくの足元に飛び出してきました(そのあたりは野猿の生息地だったのです)。明らかに幼い子猿で、ぼくの足音に驚いて見当違いの方に走り出てしまったのでしょう。猿をけとばしそうになったぼくも驚きましたが、その直後に、はるかに大きな驚きと恐怖がぼくを待っていたのです。子猿が飛び出してきた所から、続いて大きな母猿が、顔を真っ赤にして(もともとですね)鬼の形相で飛び出して、ぼくに向かって突進してきたのです! 「いや、誤解ですよ。お子さんをいじめてたわけじゃないんですよ…」などと言い訳をする余裕は全くありませんでした。脱兎の如く逃げる逃げる…数秒ダッシュしてチラと振り返ると、母猿は子供の方へ引き返すところでした。それを見てぼくもペースダウンしましたが、確実に危険区域を脱したと思われるまで、さらに数分走り続けました。そして道に座り込んで汗を拭いながら思ったのでした。猿を振り切ったあのダッシュは我ながらすばらしいものだった! で、あの「限界だ!」はいったい何だったんだろう?

 自分で思う限界とは、そうしたものなのではないでしょうか。

 先にも述べたように、いつかは本当の限界線に遭遇するでしょう。でも、それは自分で決めるものではないと思います。決めてはいけないと思います。

 最後に、有名な「ニーバーの祈り」を引用したいと思います。


      変えることのできるものを変える勇気と
      変えることのできないものを受け入れる冷静さを
      そしてそれらを区別する叡智を!





2017年8月27日日曜日

冒険について思う諸々のこと




 最近「冒険」という言葉や文字を見聞きすることがほとんどないように感じます。そのかわりに「安全」とか「安定」という言葉を見聞きする機会が増えたように思います。こういうところにも時代が反映されているような気がします。

 まずは「冒険」の意味を検索してみました。すると「危険を承知で何かをすること」「成否が不確かなことを敢えて行うこと」といったところが定義とされていました。

 これにひとつ付け加えるなら、危険を正しく認識せず、また、それへの対策を充分に練りもせずに無闇矢鱈に突っ走るのは、冒険ではなく、無謀もしくは愚行です。

 ぼくがまだ若かりし頃、冒険は概念ではなく、ごく普通に日常の一部でした。そして冒険こそが人生の最重要事項だった時期もありました。まあ、往々にして、それは無謀や愚行に傾きがちだったのですが…

 若者は(先日もこのブログに書きましたが)上昇する者です。上昇には多くの場合危険がつきまといます。その危険を克服して上昇することが、若者の歓喜の源のひとつです。


 かつてぼくは、ロッククライミングにのめり込んでいました。その頃のひとつのエピソードです。

 ある時、高さ50メートルほどでほぼ垂直だけれど比較的簡単だと思われたルートを単独(ノーザイル)で登りました(無謀な行為です!)。順調に登って行ったのですが、残りあと僅かというところで、かなり困難な部分に遭遇してしまいました。わずか1センチほどのホールド(手がかり)と不安定なスタンス(足がかり)に命を預けて、次の大きなホールドまで体を持ち上げなければならないのです。降りるのはより困難。行くしかありません。何度もホールドとスタンスの感触を確かめ、気を集中し、指に「絶対離すなよ」と言い聞かせて、思い切って体を持ち上げ、大きなホールドをなんとか掴みました。やれやれやれ…助かった…

 そうした大ピンチの時、ツーンと硫黄のような臭いがあたりに漂います。いわゆる「死の臭い」です。そして周囲に深い闇が拡がるのを感じます。「死の淵」です

 もちろん、そんな経験はもう2度とごめんだと思うのですが、その経験が、ロッククライミングの真の魅力を提示してくれたのです。

 それは「コントラスト」です。生と死のコントラストです。普段は社会や組織の中で薄ぼんやりと漂っている自分の命が、暗い死の淵をバックにした時、まばゆい珠玉の輝きと感じられたのです。

 冒険心は、人類の進歩を促す原動力のひとつです。故に、冒険は、若者ならずとも、人の心を熱く燃え立たせます。他人の冒険談でも、聞けば心浮き立つのではないでしょうか。
  
 全く冒険と無縁な人生は、味気なくつまらないと思います。だからといって、ゲーム機でピコピコと冒険をするのは、それこそ愚昧の極みだとぼくには感じられます。あんなのはバカになる危険を冒すという類の冒険ですね。身体能力どころか、脳みそを使うことさえありません。

 ま、それはともかく、本物の冒険は心を高揚させ、自分の存在を確たるものと感じさせてくれます。危険が伴なうものゆえ冒険をお勧めはしませんが、冒険の意味と価値についてじっくり考えてみることはお勧めします。



  

2017年8月19日土曜日

恋について




 さてさて、たいへんなお題をいただいてしまいました。この深遠なるテーマを与えられた時間内で お話しするのはぼくにとっては至難の業です。でも、がんばってみましょう。

 古来、このテーマについては、数多の人が論じつくし、今さらぼくごときが何を付け加えることができるでしょうか。何を言っても二番煎じ以下でしかありません。

 しかしながら、恋のプロパティーはあまりにも広範かつ膨大で、さらに、多くのパラドックスを包含していることが、多くの人にとって、それの正しい認識の阻害要因になっていると思われます。つまり、人間にとって身近で周知の存在である恋は、結構、正しく認識されていない場合が多いのではないかと、ぼくは感じるのです。

 ともあれ、ぼくが、強調しておくべきだと感じる、恋の一側面を述べてみます。

 よく「私は恋をした」という言葉を見たり聞いたりしますが、これは妥当な表現とは言えません。なぜなら、恋は人間の主体的な行為や想念ではないからです。

 人が恋をするのではありません。恋が人に襲いかかり、人に取り憑き、人を支配し、人を翻弄し、そして少なからぬ確率で人を滅ぼすのです。

 人に、恋をするか否かの選択権はありません。恋自身が欲する時、欲する人を捕らえるのです。また、恋に対する抵抗や無視は不可能で、制御法も逃げ道も存在しません。

 「いや、そんなことはない。私は恋を理性で制御した」と反論する人もいらっしゃるでしょう。そういう人にはこう申し上げたい。「あなたは実際には恋はしていません。あなたが恋だと思っているのは、単にある種の欲望か打算にすぎないのです」

 恋のことを、あたかも暴君か寄生虫かウイルスのように言いましたが、恋がそういう面を持つことは否定できません。ですが、その一方で、全く違った面を恋は有しています。


 恋は世界を美しく彩ります。恋する人は詩人となり、今まで平凡さの砂に埋もれていたものすべてが、清新な輝きを発するのを目のあたりにします。世界は恋を中心に回転を始め、すべてのものに新たな秩序と価値と生命が吹き込まれます。


 人間は、自らの人生を、本当に主体的に選択し得るものなのでしょうか。恋の魔力に思いを馳せる時、自由な意思というものについての常識的な信念が揺らぐのを感じます。 運命という言葉が具体的な力として最も強く感じられるのは、他でもない、恋をしている時なのではないでしょうか。

 恋は、例えるならば、巨大な雪崩のようなものです。それは音もなく我々に忍び寄り、気付かぬうちに我々を巻き込み、抗いようのない力で我々を押し流すのです。それが我々を何処に運び去るのかは定かではありません。闇黒の冥界でしょうか? あるいは安息の楽園でしょうか? 

 そして、恋することは、自らの内に消すことのできない炎を宿すことです。その炎は人を焼き尽くすのでしょうか? それとも焼き清めるのでしょうか? これもまた定かではありません。

 皆さんがまだ恋をしたことがないとしてお尋ねしますが、以上のことを承知した上で、それでも、恋をしたいと思いますか?

 その答えがどちらであれ、皆さんの希望を恋はまったく考慮してはくれないのですが… 



        ご静聴ありがとうございました。     





2017年8月13日日曜日

青春についてあれこれ思うこと



 最近、ふと気がつくと、青春についてあれこれ考えていることがよくあります。おそらく、青春を主観的に主張することが困難な年齢となってしまったことへの嫌気と抗議の念がふつふつと湧き上がってきているのでしょう。


 高校時代に読んだヘルマン・ヘッセの小説にロレンツォ・メディチの言葉が引用されていて、それが未だに心に残っています。

      青春はいかばかりうるわしき
      されどそははかなく過ぎゆく
      楽しからん者は楽しめ
      明日の日は確かならず

 当時、この言葉に深い感銘を受けたにもかかわらず、その後の長い年月、ぼくは惰眠を貪り続け、人生の最もうるわしき時間を無駄に食いつぶしてしまったのでした。青春時代という繊細な糸は、有意な行為によって紡ぎ止められることなく、もつれ、こんがらがって、何処かへかき消えてしまいました。

 今、初めて読んだ時とは違う視点で「そ〜なんだよな〜」とため息まじりに思います。人間というものは      いや、ぼくという人間は、やがて手遅れになるとわかっていても、実際に手遅れになってからでないと本当の緊迫感を持てない生き物なのでしょうかねえ…


 かなり以前に書いた文章の一部を掲載します。

★ ★ ★

 若者とは、上昇する者のことである。上昇する者は常に軽やかで、行く手には、光に満ち、無限に広がる天空を見ている。

 そこで若者は、これが人生の唯一のあり方だとたあいもなく信じこんでしまう。若者にとっては、人生は永遠であり、無限の可能性に満ちている。「死」や「限界」は虚しい言葉にすぎず、理屈では分かっていても、真に実感を伴なって理解することはできない。

 故に、若者はしばしば「生」の浪費へと走りがちになる。若者が主義や一時的な感情の高ぶりのために簡単に命を投げ出したり大きな危険を冒したりする場合が多いのも、生命力の過剰のために、死を正しく、真剣に受け止めることができないからではないだろうか。光に酔っている者は影を平面的にしか捉えず、その恐るべき深さに思い至らないのだ。

 だが、やがて上昇は止まり、下降が始まる。その時になって、我々は初めて人生のもうひとつの姿に気づくのである。

 軽やかさは失われ、視界も一変する。今や我々の行く手に待ち受けているのは、暗く、荒涼たる大地である。それは今のところどれだけ遠く隔たって見えようとも、やがて行き着くべき終着点に、常に我々の思いを至らしめる。


 だが、そうして人生の有限性をはっきりと認識することによって、同時に我々は、現在の「時」の貴重さ、美しさにも初めて気づくことができるのだ。人生はいかにもはかない。が、はかないが故に(ベートーベンの言う如く)「千度も生きたいほど美しい」。されば我々は、我々に許されたこのただ1度の人生を、千倍もよく生きなければならない。

★ ★ ★

 基本的に、今も上に述べた考えは大きく変わってはいません。 青春とは、高まろうとする意志なのだと思います。


 ぼくのある知り合いは、現在60代前半なのですが、先日、雑談の中で面白い話をしてくれました。

 彼は、2年ほど前、ある所でたまたま握力計を見つけて おりゃ〜〜! と握ってみました。その結果、握力が全盛期より25キロほども落ちているという現実を突きつけられました。


  愕然とした彼は、ほどなく、かなり強力なハンドグリップを買い込みました。初めはそれを半分も握ることができなかったのですが、最後まで握り切ることを目標に、暇な時間に うんが〜 と顔を真赤にして小さなバネと格闘し、最近、ついに目標達成したということです。

 もちろん、全盛期のパワーを取り戻すまでには全く至らないのですが、60歳を過ぎてもまだ筋力アップが可能なことが証明できた!! と悦に入っていました。

 彼の次の目標は、全盛期の4分の1ほどに落ちていた懸垂回数を、2分の1まで持ち直すことだそうです。これもすでに進行中で、現在、3分の1くらいまで達成しているということです。

 青春してますよね〜!

 

 青春とは、ただ、人生におけるある限られた幅の年齢を指すだけの言葉ではありません。ひとたび青春に別れを告げても、あるいは告げられても、明らかな下降が始まってからでも、青春は、何度でもそれを求める人に微笑んでくれるものなのです。

 これも高校時代に読んだのですが、トーマス・マンの小説の中に、こういう言葉がありました。

    ひとたび学生たりし者  常に学生なり

 この言葉を少しもじって、ぼくはこう言いたいと思います。

    ひとたび青年たりし者  常に青年なり!

 青春に年齢制限はありません。



2016年9月22日木曜日

高みを目指すことの尊さと困難



高みを目指そうとするのは、人間の本質的な欲求です。その欲求故に、人間は進歩・向上を続けて来ることができたのです。新たな知識を得た時、自分の限界を乗り越えた時、主体的な選択が可能となった時、自由や独立を勝ち取った時、人は大きな喜びを感じます。それは味わって然るべき喜びであり、それが我々をより良い人生へと導いてくれるのです。


しかし、進歩・向上には様々な困難も付随します。知識の修得には根気が求められます。限界への挑戦には苦痛が伴います。選択には迷いや戸惑いがつきまといます。独立の獲得と維持には努力と忍耐が必要です。自由は日々闘い取らなければなりません。

決められた道を誰かに手を引かれて歩くのは、たやすく楽ちんで、ほとんどストレスを感じることもないでしょう。でも、そうした生き方が人間の理想であると思わないのは、ぼくだけではないはずです。

疑念や不安や疲労感などが、高まろうとする人を挫折へと誘います。不調を感じると安易な道が恋しくなります。しかし、改革を行なおうとするならば、主体的に自らの道を歩もうとするならば、人生をより良いものにしようとするならば、次々に襲い来る困難を乗り越える決意と覚悟、そして勇気が不可欠です。無傷の勝利など、ごくごく稀にしか訪れてはくれません。


もちろん、いくら向上が大事だと言っても、あまり性急に突き進むのは考えものです。スポーツのトレーニングと同様に、適度なペースを保ち、適度に休養も挟まないと、効果は消え、リスクのみが残って、以前より悪い状況に陥る恐れがあります。


ともあれ、大切なのは、何が自分にとって最善なのかを知ろうとする探究心と、それを実現しようとする揺るぎない意志です。人により、目指す高みの種類は様々でしょう。それでOKだと思います。そうした多様性こそが、全体として人間を高めて来たのですから。


何でもいい。高みを目指しましょう。その努力だけでも人生は輝かしいものとなります。そこから得られる感動や充実感は、人生に価値を与えてくれます。そして、もし何かが達成できたなら、それは地上のパラダイスです。



2015年12月2日水曜日

人類の愚かさについて





ある所で行なった短いスピーチの原稿です。


 ある人が、雑談の中でこういう問いを投げかけました。「様々なテクノロジーが発達した現代においても、飢えに苦しむ人々がいるのはおかしなことですね。」…確かにそのとおりだと思いました。技術的には、世界中のすべての人々に、生命と健康を維持するに足るだけの食料を供給することは十分可能だと思われます。しかし、現実には、多くの国で、多くの人が、飢えのために命を落としているのです。


 その最大の原因は人間のエゴイズムである、とぼくは思います。他人を犠牲にしてでも自分の利益を求め、それを増大させ、また独占しようとする人間の性が、飢えに苦しむ人を増加させているのです。


 それは個人単位だけの話ではありません。家族・地域共同体・企業・国家といった単位、また、政治的・宗教的・民族的・人種的・思想的な集団によるエゴイズムが、闘争や迫害を生み、貧困層を増加させています。


 そうした現状を見るにつけ、不可解な思いに苛まれます。この進歩した時代に何故?…という。


 しかし、我々は本当に進歩した時代に生きているのでしょうか? よく考えてみると、この数千年の間に進歩したのは、単に知識や科学技術だけです。人間そのものは、ほとんど、いや、まったく変わってはいません。たとえば、プラトンは2000年以上前の人間ですが、どう見てもぼくよりもはるかに賢い。人類は数百万年かけて進化してきましたが、1000年や2000年では有意な変化は期待できないでしょう。人間は、文明を築いた後にも、それ以前の野蛮さや愚かさを自らの内に囲い込んでいるのです。


 ならば、数百年前に行なわれていた虐殺や迫害や搾取などが現代においても依然として続いているのも、当然のことなのでしょう。しかも、進歩した技術が野蛮さや愚かさの道具となる時、もたらされる被害は、はるかに深刻なものとなるのです。


 とはいえ、人類の将来は、暗い見通しばかりではないと思います。


 蓄積され広められた知識は、人々の思想や気持に作用するでしょう。たとえば、古代には、世界は果てしなく広がったものだと、あるいは、果てがあるにしても、それは人間の活動圏のはるか彼方であると感じられていました。でも、今や、世界(すなわち地球)は有限かつ閉じられたものであると認識されています。それも、交通や通信の発達により、急速に小さなものとなりつつあります。資源や自然もまた、限られたものであるという認識が広がってきています。


 そうした認識が、人類の一体感を醸成し、人を様々なエゴイズムの呪縛から解き放ち、大きな隣人愛へと向かわせることを期待するのは、安易で愚かなことでしょうか?
  人間はそう簡単には進化できないとしても、心を改革することはさほど困難なことではないと思うのです。そして、それができたならば、劇的に進化するよりも、はるかに幸せな存在になれると思うのですが、これも甘い考えなのでしょうか…